TAKUMA KANEKO

7/2 - 7/8 個展:船橋東武百貨店

BLOG(絵画考察)

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絵画と人工知能について

これについては前々から考えていて、今も進行形で考え続けている。

理系の大学に進学した際、人工知能の研究をしている教授がおり、興味を持っていたが二年時に居なくなってしまった。その当時は、若者特有の「何か本質を追求したい、創造したい」と言う漠然とした思いがあり、そこに絵画が当て嵌まった。

2013年頃レイ・カーツワイル著書の『ポストヒューマン誕生』を読み、その中では「2045年頃に人工知能が人間を超える」と予測されていた。しかしながら、早くも2016年に囲碁で人間を負かし、同年レンブラントの新作をAIがそれらしく描いた。2020年代前半には人間と会話出来るまでとなって来て、その進化速度に驚嘆し続けている。

人間の外部思考の模倣や拡張が可能になった時1、「我々に残るものは何か?」と言う疑問が湧いてくる。ある時期には考えが飛躍し、「もう描いたって自分よりはるかに超えた情報量を持ち、絵画的に高度になり、そしていずれ創造的作品も一瞬で大量に作れる未来が来るのに何を目指せばいいのか?」。「描くこと自体は省略され、画家は意味付けをするだけとなるのか?」と虚無感が奥底に生じていた。(自分は前者に重きを置いているようだ)

かつて19世紀に写真機が生まれた時、画家たちは似たような状況に襲われていた。

現在は画家だけでなく、人類そのものが「どうあるべきか?」を問われる状況となってくる。虚無感に襲われるもの、危機感をいだくもの、明るい未来を待つもの、流れに身を任せるもの・様々だろう。カーツワイルの言う「収穫加速」的にAIが進化した場合、知性において我々は一瞬で置き去りとなるだろう。

では、我々に残されたものとは?

皮肉にも聞こえるが、「身体の有限性」である。我々は生を授かり、心と体は伴って成長をし、衰え、終わりを迎える。また、その過程から「思考の独自性」が生じる。我々は個々の“生い立ち”により一人として同じではない個性、感性が存在する。一言でその意味するところを表すのであれば、

“自身の中にもののあわれを慈しむ感覚(クオリア)を持っていること。” であると言える。

これまで我々は不完全さを克服しようとしたり、許容したりしながら生命を全うし、そこから様々な表現の形を生み出して来た。今その章がそろそろ終わろうとし、次章を迎えようとしている。この先は技術の加速度的発展3により、我々の思想や文化、価値観はこれまでに無い程に急変容する。4知性においての先頭走者のバトンは人類からAIに渡され、我々は走者の競争から降り、その後は科学技術の進展を傍目にしつつ、次第により本質的に「生きる」ことへと向き合いなおすこととなるのではないだろうか。

現時点で言えるわたしの考える確実なものとは、このページ先頭で述べた様に、自身に生じる『“そこ”に“ある”という感覚』であり、その確かな感覚を基に、これまで歩んで来た・これから歩んでいく自身の物語5を受け容れ、且つ自由に全うすることだと考えている。自分はそれを絵を描いて行くという事で実行する。

そして、時に私から生み出た表現を通して、他者との“物語”の繋がりや、“質感”の共鳴が起こる事が私の愉しみである🎨

2026年4月29日水曜日


ひまわりについて

以前、富良野でひまわり畑を描いた事があり、ひまわりの種の並びに関心を抱いていた。

以前の「フラクタル」などでもあったように、自然や個々の植物を見ていると幾何学的であったり、何かの法則の基に構成されているに違いないと思えるものがある。

「ひまわり」はその内側の種の配列模様に何か法則があるのではと思っていた。

それは「そうなるべくして」そのような形になったのであり、偶然ではなく必然的に出来上がったものなので、そのタネを明かされると驚き嬉しくなってしまう。

今までNHK教育テレビなどは殆ど見ていなかったのだが子どもがいると見る機会がある。
先日、偶然見てなるほどと思った映像。

内側から外側へ向かって一番密に効率良く並べる形を、ひまわりは長年かけ身をもって作り上げてきたのだろう。そしてその角度が「フィボナッチ数列」から出される「黄金比」の角度であると言う事だった。

古来より人が「美しい」と思ってきた比率が、自然の仕組みと繋がっている事、さらに数式で説明されることは驚きである。

ひまわりがこの「黄金比」を知っていて種を配列したのでないのと同じく、モナリザの顔の比率などは作者の美の感覚的なものからその様になっていったのではないかと自分は思う。
絵画には意図するところと意図しない所の要素があらゆる場所に含まれている。
絵を数学的幾何学模様のみで描いてしまうと、そこには「固さ」しか感じられなくなる。人の手による「不完全さ」も必要な要素なる。(2008年5月の記事に同じ事を書いていたが、「人の手でコントロールすること」と言う記述は今では少し異なると考えている。)

映画の「ひまわり」やフィボナッチ数列の「ひまわり」、今回ものに限らず他の様々な経験は自分の中に溜められて表現につながっていると思っている。すぐには応用できないが。

2014年2月1日土曜日


「夜の絵」と「昼の絵」

絵を始めるきっかけになった中学時代の担任の美術の先生が、以前絵を始た頃、「夜に絵を描くと夜の絵になるから・」と言っていたのが頭に残っている。その時は「夜の絵?」と思いアンリ・ルソーか何かの絵柄が頭に浮かんだ位であまり分からなかった。以降それについて注意を払うようになってから何となくその意味が分かってきた。
夜は周りの騒音や雑用が無いので集中がしやすい。眠気から解放されると気持ちが盛り上がりやすくなって、作られた作品は濃厚、濃密になる。「作品」と言ったのは、絵だけに限らないからだと思うから。恋文などは夜に書いてはいけないとよく言われる。朝見ると読めた物ではないらしい。書いたことは無いけれど。
井上義彦の「バカボンド」を読んだ時、これはたぶん夜に描かれているのではないのかな、と感じた。後半など特に世界観が濃密になっていた。

表現によっては夜に書いた方がいいものもある。自分の表現しようとしている絵の世界観は「昼間より」の物だと思っているので、出来るだけ日中に描こうとしている。個展前などではそうもいかず夜中まで描くこともある。そうするとつい筆を入れすぎて「濃密」になり雰囲気が変わってくる。

アンリ・ルソーの作品は夜描いたのだろうか昼描いたのだろうか。
彼が生きていた時代はまだ夜の照明が発達していなかったから絵は日中描いていたのだろうか。

2013年2月16日土曜日


光について

「もっと光を」と、色彩論を書いたゲーテは亡くなる間際に言ったらしいが、暗く色彩のない部屋で最期をむかえるのは厭だったのだろうか。
冬至前後は屋外と共に室内が暗くなるのも早くなってくる。もっと光が欲しくなる。日中、外では十分な光で描けているのだが、室内で加筆修正したり、外で作った絵から大きな作品を作ろうとするとその時の明るさと光の色の違いに違和感を感じ悩まされる。

理科の話。光の「スペクトル分布(引用:http://i-zukan.net/より)」は屋外の太陽光(または空の光)と室内の普通の蛍光灯では大きく違っている。下の分布図では、太陽光と蛍光灯のそれぞれの波長での色の強さが分かる。太陽光はすべての色(波長)で連続して強くあるのに対して、蛍光灯は偏った特定の色域だけを強く持っている。

家庭用の蛍光灯では、ある特定の範囲の色は良く見える。
太陽光の色の移り変わりが平均的なのに対して、蛍光灯ではよく見える色とあまり見えない(見分けられない)色が出てくる。
照らす光は絵の画面に対して、各色をうつし出すもので、蛍光灯の光では絵の赤や黄色から緑の間の色、緑から青の色の違いがはっきり見えなくなってしまう。風景画では青や緑の使い分けが重要なので、それが見えず分からないまま描くのは、まるで鼻をつまんで食事しているような感じになってしまう。外からの自然な光のない夜に蛍光灯などの下で風景画を日中と同条件の見え方で描くのは、色の使い分けに関して至難の業なのである。
太陽光の下では見えていた黄緑~緑の微妙な違いが蛍光灯だと同じに見えてしまう。そうやって出来た絵は色の表現の幅が狭くなってしまうのである。
しかし屋内で描かなければいけない事も多くあるので、各色を出来るだけ見れる光源にしようと、今は高演色性の蛍光管を使っている。太陽の光とまではいかないが各波長の色をまんべんなく持っている。下はスペクトル分布図。
一般の蛍光灯のスペクトル分布

高演色蛍光灯のスペクトル分布

太陽光のスペクトル分布(一例)

「夜一生懸命描いて、朝、外の光に照らされて見たら全く大した事のない絵に見えて落ち込んだ。」と言った事はよくある話だけれど、夜の照明と太陽の光の演色性の違いも一つの理由になると思う。

しかし、絵を鑑賞するのは普通屋内なので、窓から自然光(直射日光でない)が当たるような場所に飾ってあったり、照明の整った美術館でない限り、鑑賞者が本当の色の豊かさを普段感じることは余りないかも知れない。

良い絵の条件は色だけではない、とも言う事になる。

2013年1月6日日曜日


個展に向けて

最近は晴れていても寒い。一ヶ月を過ぎた自分の息子も、防寒のため服やら毛布やらでぐるぐる巻きにされている。
最近は笑うようになった。

次の個展は東北地方、仙台。それに向けて作品をあと数点仕上げようとしている所。
室内での製作の場合は、以前描いた小さいサイズの絵を元に大きくし、構図や配置、色などを変えつつ作っていく。一度訪れて描いた事のある場所は、その場の雰囲気や周りの景色まで覚えているので描いていてもそのときの記憶が戻ってくる。
写真も参考にしているが、大切なのは写真の色や細部の描写を克明に移してしまわないこと。
そうなると、絵は「硬く」なって持っている元の雰囲気が失われてしまうことが多い。この理屈については長い話になる。ある写真家の記事にもそれに関する説明があった。(サイト:市村勲の写真論と世界の写真家)

下は元の絵と、これから仕上げていく作品。完成作は次の個展にて。

2011年1月17日月曜日

正確に描くことと早く描くこと

イタリアでの授業でインストラクターMarc Dalessio氏がそのことについて口にしていた。
一見正反対に思えるが、実際は正確に描けなければ時間が多くかかってしまい、自分の手が頭で描いているイメージに一致したものを描ければ、早くなる。
なので、現在や昔の作家でも上手な画家ほど、良い作品を驚くほどの早さで描き上げる人が多い。早く雑に描くのは簡単だけれど、早いのに丁寧に描くのはことのほか難しい。経験と技術を磨いて出来るものなのだと思う。
ただ早く描くこと自体に良さがあると言えないが、時間がかかったから単純に良いということも簡単には言えない。
自分でも、何日もかけた作品が駄目で、現場で数時間かけて描いたものがより良かったりということがよくある。

2010年7月6日火曜日


木と幾何

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fd/Von_Koch_curve.gif

最近外で描くのも寒くなってきた。
屋外で風景画を描いていると、木の形や雲、山の縁など色々と外形(ふち)を観察することになる。そこで「フラクタル」という考えが度々出てくる。上の図は三辺の直線を折り上げた三角を作り、更に相似でそこにできた直線を折り上げて、繰り返し・・というもの。
数学の考えだけれど、自然には多く見られるもの。
例えばモミの木を見ると大雑把に見ればとがった三角形、すこし細かく見るとギザギザの集合から出来た三角形、更に近づいて見ればその枝のかたまりもギザギザの葉の集合・と繰り返している。

絵を描くときには何処まで描けば良いという答えは無いので、ある画家は最大の外形を捉えて描き、ある画家はその次まで描く。もっと描き進めていく人も居る。それぞれで良さは表現できる。
一見、一番大きな形を捉えて描くのは一番単純で楽そうだと思うけれど、これがまた難しく、そのものの形を筆の動きで表現する必要があるので、イメージで行くと書道に近い。動きのある絵は、全体としてのリズムも必要になる。
他方、細かさを突き進めれば、フラクタルのようにその先の先のサキ…となる。

絵には文学的な考えも、理科の要素もあるから奥が深い。
下の葛飾北斎の波もフラクタル。

2009年10月17日土曜日


現地で気になっていた事


「バーントシエナ」や「ローシエナ」と言う茶色の絵具がある。直訳すると「焼いたシエナ土」、「生の(そのままの)シエナ土」。シエナで絵を描いていた 時、地面の土の色がこちら関東ロームのこげ茶色と違って、明るい黄土色の特徴的な色だなと思い、これで絵具を作ってみたらいい色になるかなと気になる。そ して甲子園球児のように土をかき集めて大切に持ち帰ってきた。
家で砕いて細かくし、油その他と混ぜ、練り合わせて自家製の「ローシエナ」が出来た。色はそれなりだが、砕きが足りなかったので粒の荒めの絵具になってしまった。絵具に砂を混ぜて描くと言う描き方があるが幾分そのような感じ。
滞在中に作った「日本に戻ったらやりたいこと、やることリスト」の一つが出来た。

2009年7月22日水曜日


写実と細密さ

今度モデル撮影の場所を近くのカフェTOUMAIに提供してもらうため話をしに行った。以前も書いた雰囲気のあるお店。ネコが多い。オーナーの人の本を読むと面白い。世界各地を飛び回っている。

人 物画がほぼ仕上がった。写真は手の部分。自分は「細かさ」より色の表現とその印象を大事にしていきたいと思っている。時間をかけて描けば描くほど終わりが 無く詰まっていく。高畑勲監督が著書「映画を作りながら考えたこと」の中で「細部まで書き込んだ結果魅力を失ってしまうことがある。ラフにかかれたものが非 常に生き生きとしていることがあり、線一本(アニメーション)でかかれたものより人の想像力は働く。」と言っていた。
これに似たことも教わったことがある。絵でも画面全体全て描き込まれていると見る人の入り込む余地が無くなってしまう。今はまだできていないけれど、絵画にできることは自分の手でそれをコントロールして表現することだと思う。

2008年5月8日木曜日


理科の話

前回関係ないとは言ったが、ゴールデンウィークなのに曇りや雨が多い。自然光で絵を描く時、曇りと晴れでは光の量が全然違う。
人の目はカメラのかなり性能のいい高いレンズと同じ位らしい。曇っていても晴れていても物の色や明るさを常に良い具合に調節して映している。
目 の性能で言ったら鳥はかなりいいと思う。視力は人の数倍あるし、色を見分ける能力は相当ある。だからオスはきれいな色彩でいるのだと思う。しかし、鳥目と 言うように鳥は暗いところを見る能力は弱い。ネコは色があんまり見えていないが、かなり暗いところでも見ることができると聞いたことがある。
あと は昆虫。ハチの実験なんかでもよくやっているが、ハチは花の蜜をとるために色を見れる範囲が人間より広いらしい。人は紫より外は黒にしか見えないが、ハチ は紫外線の範囲まで見れる。だから普段自分たちが見ている紫一色のパンジーとかもハチにはもっと違った模様で見えているらしい。
と言うことで、いろんな生き物の目の能力があったらどういった絵が描けるだろうかと考えたりする。

2008年5月5日月曜日







注釈(少しSF的に)

  1. コンピューター上に克明にアップロードされた個人の外部思考は、第三者から見れば「その人」と成り得る。そうした「哲学的ゾンビ」が存在する場合、我々は主観的なクオリアの存在を自身が感じることそのものが絶対的な信頼となる。(本文に戻る) ↩︎
  2. 医療技術、製薬技術などの複合的発展により、生老病死を免れる未来も考えられる。現在の人類はカルダシェフ・スケールで言うと0.7強程度となっている。Ⅰ、Ⅱ・・となって行った時、肉体の有限性を克服すべきものとした場合はほぼ解決されるだろう。死を受け容れるのか、超越するのかは個人の選択となるだろう。 ↩︎
  3. 人類と袂を分けた猿はかつてアフリカの地で森に残り、我々の祖先は森を後にした。我々は数百万年の進化の後に現在の猿を見る様に、AI(AGI、ASI)は我々をそのように見るだろう。また、その状態は刹那であり、AIの進化は爆発的であれば、我々は猿・小動物・蟻程度の知性となって行くだろう。既にAI同士が対戦している将棋の棋譜は我々には理解不能であり、「気持ちの悪いもの」とも言われ、我々はそこに“美しさ”を感じることが出来ない。 ↩︎
  4. この世界は「ホログラフィック宇宙論」や、「仮想現実世界論」、または物理学を進めて行くと「この世界は数式であり、仏教の考え(色即是空など)に通ずる」と考える物理学者も居る。私の物語はいわゆる「ソロプレイ型ワールド」なのか「マルチプレイ型ワールド」なのか未だ判断出来ない。(現状で知り得る方法を進んで取るつもりはない)
    心理学者の河合隼雄氏が晩年に語っていた「コンステレーション論」では、世界に繋がり(因果)を見出すのは自分自身であると述べている。それが物語の要素と言える。 ↩︎

現時点ではこの世界がコードで書かれたシュミレーションであるか、はたまた世界が5分前に出来たものなのかを知る術は無い。しかし、それに対して虚無主義、厭世的になったり、唯我論を振りまくつもりはない。唯一確かなことは「私」がここに居て「感じる」ことがあると言う主観的事実だ。AIがどれほど進化してクオリアを持とうが本質的に関係ない。どのような不確実性の中にあっても、「いま感じている」という主観的事実だけは揺らぐことがない。 この「私が感じる」という現象こそが、唯一確かな基盤である。 重要なのは、ここで言う「私」とは固定された実体ではないということである。それは身体や記憶、経験によって形作られた(境界を定義した)一つの指し示しの箇所、いわば無数の“矢印”の指し示しによって浮かび上がる幻影のようなものである。脳の状態が変われば、その在り方も変化し得る。しかし、それでもなお「感じが起きている」という事実そのものは否定できない。物語内の私の経験記憶、達成や失敗、出会いや別れ、喜びや悲しみを基に、そして今後起きるあらゆる出来事に過度な喜びや絶望する必要もなく、シナリオの一つかも知れないと予見し、ストーリーを引き続き自由に、やって行こうと考える。

結局のところ、私の立場は単純に

「感じ」が起きているという事実を基盤とし、
その中で生じる差異に応答し、
意味を生成し、
行為を選び、
表現し、
時に他者と共鳴しながら、
そのプロセスそのものを生として引き受ける。

と言うことである。

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